終わりの始まり ─『時の葬列』─

ジュネ、停滞するロック・シーンに未来はないという結論に達し、AUTO-MODの解散を決意する。解散に向けて活動を充実させ為、シリーズ・ギグ「時の葬列・終末の予感」と、新レーベル ヴェクセルバルクの設立を決意。




この年、AUTO-MODは東京でのライヴこそ決して多くなかったが、積極的にツアーをこなしていった。時代の変わり目だったこともあって、ライヴの観客動員は満足いくものではなかったが、バンドは貧乏ツアーを十分に楽しんでいた。今にして思えば、一切余計なことを考えないで済む、良い時代だったというべきか。
しかし、当時のロックシーンの停滞は一向に解消される気配がなく、いくらバンド゙テンションを高めていっても、それが報われるこどはなかった。そういった状況の中で活動を続けていくことに、いささか疑問を感し始めていたジュネは、'83年10月頃、とんでもないアイデアを口にした。それはAUTO-MODの解放を前提に、一定期間凝縮した活動を展開するというものだった。勿論、それは一歩間違えれば自らを破滅に追い込む危険なカケであることはジュネ自身が一番良く知っていた。だが、そうすることによって、テンションのピークを持続し、また結果を恐れず、何にでも挑戦できるのだと信じていたのも確かである。シリーズ・ギグの開催、新レーベルの発足等、解散を決めた後のジュネは次々とアイデアを実行に移していった。
今でこそ、解散はロック・バンドにとって十分価値のあるイベントになっているが、当時は解散というと周囲の反応は冷たいというのが常だった。周囲では、何で解散しなければならないのかというような声も多く聞かれたが、ジュネはだらだらした安定など望んではいなかった。それよりは、ロックシーンの仇花として華麗に散る方が自らにふさわしいことを十分に知っていた。
自ら解散を決めたAUTO-MODは、'83年12月にその第一歩としてシリーズ・ギグ「時の葬列・終末の予感」をスタートさせた。解散までの時間は約1年、その中でやれることは可能な限り実行するというのが最初の段階でのきめごとだった。とはいっても、1年間の活動を事細かに決めていたわけではない。大枠だけ決めて、後は流れの中で即時に判断していくという姿勢を自ら打ち出していた。結局、当初の約1年で解散という計画は、様々なプランが拡大されていったため、約2年後の'85年11月まで引き伸ばされるがそれは裏返せばジュネのカケが成功したことの証明と言えるだろう。解散を決定してからの2年間、AUTO-MODは真に充実した時を過ごしたのである。
(宮部知彦、'91年再発CDブックレットより転載)




「時の葬列は」は、単なる幻影となりかけていたAUTO-MODが、解散を懸けていかなるバンドでありいかにしてその存在意義を持ちえたかを白日の下にさらすため不毛の血にばら撒いた毒々しいペンキ状のプロパガンダであった。
独自の世界を僕の手の中でゼロから踊らせ、その世界のイメージをてっとり早く大きく構築するため、マダム・エトワル、サディ・サッズ、G-シュミットの3バンドを共同幻想の一翼として迎えいれ、ありもしない共同イメージを音楽シーンに植えつけた。あくまで異端として突き進むことを決めたのもこの時だった。そこには布袋君の参加によりAUTO-MODの音楽性が極めて高度になり、音を聞かせるバンドとしての自信が視覚的/実験的余裕へと向かわせた裏づけがあってのことであった。
(ドキュメント『HISTORY 1980-1985』より ジュネによるコメント)

”ヴェクセルバルク”の名がここで登場。AUTO-MODがそれまでシングルをリリースしていたテレグラフ・レコード内のサブ・レーベルとして立ち上がった”WECHSELBALG”とは、ドイツ語で”取替え子”の意。西洋のファンタジーの世界観で、人間の赤ん坊の代わりに妖精あるいは子鬼(ゴブリン)として生まれてくる、または生まれた赤ん坊がすり替えられることを意味している。ダミアン・ソーン(『オーメン』)とかキン肉スグルとか(←それはちょっと違う)。
AUTO-MODはヴェクセルバルクの第一弾アーティスト(そりゃそうだ)と同時に、テレグラフ・レコードの第1弾アーティストでもあり、さらに結成前のマリア023は日本初のインディーズレーベルと呼ばれるゴジラ・レコードの第1弾アーティスト、とその道の開拓者と言ってもいいのだろう。
◇『イーター』とテレグラフ・ファクトリーのこれまで
◇テレグラフ・レコードとその周辺
(2007.08.30)