言葉は気持ちを広げてくれる ─佐野元春の『約束の橋』を聴いて

お客様先へ向かう車のFMラジオから佐野元春の『約束の橋』が流れた。

80年代のポップの先端だった佐野元春が、90年代の初頭に一般層にまで広く知られることとなったヒット曲。
佐野元春のファンではなかったし(そろそろちゃんと聴かないといけないのかな、と思ったりするけど)主題歌として使われたドラマ『二十歳の約束』を僕は全く見ていなかったけれど、当時の仲間と行ったカラオケでよく歌われていたので耳覚えはある。

懐かしいなと思いながら聴いていたが、その歌詞に気持ちを掴まれて、涙がこぼれた。

使われている言葉/単語それぞれは凡庸なのだけど、
「君(=聴き手)」のいる世界は美しいイメージとして広がり、
「君(=聴き手)」の持つ魂の孤独とかけがえの無さが賞賛される。
豊かなイマジネーションの世界によって聴き手の気持ちが裸になったタイミングで”君は間違いじゃない”と手を差し伸べる絶妙のテクニックには無条件で降伏せざるを得ない。


故・阿久悠の言葉だったかもしれないが、どこかのwebサイトで「昔の歌謡曲は映画、今のJポップはブログ、造る側の志にはそれくらいの隔たりがある」という意味の文章を読んだ。
決してこの歌(詩)が至高の一篇ではないにせよ、ありふれた言葉で造られたポップソングとは全く違う【志】の基に生まれた歌であることには間違いない。


歌い手よ、作り手よ、

歌の持つちからをもっと知ってはどうだろう?

詞にできるちからをもっと信じてはどうだろう?

ケータイとか恋人の手とか、自分の手の届く範囲内で完結する世界から飛び出して欲しい。

人間は言葉を手に入れることで、自分の気持ちをどこまでも遠くに飛ばすことを知ったのだから。

君は行く 奪われた暗闇の中に戸惑いながら


君は行く ひび割れたまぼろしの中で苛立ちながら


いつか孔雀のように 風に翼を広げて


西の果てから東の果てまで 休みもなく車を走らせてゆく


君は踊る 閉じた薔薇の蕾みの前で 背伸びしながら


君は踊る 狂おしくミツバチの群を すり抜けながら


いつか燕のように 風に翼を広げて


街の果てから森の果てまで 振り向きもせず車を走らせてゆく


今までの君は間違いじゃない


君のためなら七色の橋を作り河を渡ろう


君は唄う 慌ただしげな街の中を傾きながら


君は唄う 焦げた胸のありのままにためらいながら


虹の橋のたもとで 河の流れを見つめて


月の岸辺から燃える砂漠まで 終わりのない夜をくぐり抜けてゆく


今までの君は間違いじゃない 君のためなら橋を架けよう


これからの君は間違いじゃない 君のためなら河を渡ろう