青木富夫氏 逝く

横川シネマ!!の掲示板に、篠崎誠監督がコメントを寄せていた。

みなさん、すでにご存知のように青木富夫さんが1月24日の朝、静かに逝かれました。何だかいまだに信じられない気持ちです。ご遺族の方の希望で翌日ごく親しい方々だけで密葬されました。

残念ながら私は21日からロッテルダム映画祭に参加しており、これから帰国しようとした24日の朝、日本からこの悲しい知らせを受けました。連絡しなければいけない映画関係者の方々への連絡を妻に頼み、呆然としていました。
2002年の初頭、青木さんは癌を告知を受け、そのまま入院されました。そしてこの2年間病気と闘ってこられました。半年間で片肺と胃の半分を切除する大手術を受けられ、一度別の病院に転院した後、その年の夏の終わりに退院されました。転院先の病院は私の家から10分のところにあり、お見舞いに行く度、「いっそうちに泊まって、うちから病院に通えばいいじゃないですか」と言うとニコニコ笑っていらっしゃいました。退院してからは、ご次男夫婦の元で暮らされるようになりました。「篠崎さん、また映画撮ろうよ」と言う青木さんと、リハビリを兼ねて、一緒に『突貫ジジイ』なる短編シリーズをビデオで作っていくことになりました。わずか30秒の一発ギャグのようなものを含めると8作品になります。その延長上で撮った『刑事まつり』の私のパート『忘れられぬ刑事たち』の「寝たきり刑事」を入れると9本競作したことになります。「なんだ、寝てるだけでいいのかい? 家でしてることと変わんないね」といつもの冗談で僕らを笑わせてくれました。

この2年間でその他にも青木さんは映画美学校の学生だった杉田協士君の『月のある場所』、同じく美学校の卒業生である堀木君の『力』など、50歳以上も年の違う新人監督たちの映画にも進んで出演してくださいました。NHKの朝ドラ『こころ』にも2度ゲスト出演されました(リハーサルに付き人としてご一緒させていただきました)。本当に生涯現役の「役者」でした。

結果として青木さんとの最後の仕事になってしまった『犬と歩けば』では、体調を整えるために再入院し、プロデューサーに迎えはいらないとおっしゃる青木さんを、撮影前日に私自身が病院に迎えに行き、そこからタクシーを飛ばして撮影場所近くのホテルまでお連れしました。「明日よろしくお願いします」と帰ろうとする私に「もう帰る? ちょっとくらい、いいでしょ」と気を遣ってくださり、ホテルの喫茶店でコーヒーをご馳走してくれました。
撮影当日、青木さんは病人役を「見事に演じ」、そのまま日活時代からの友人たちと連れ添って出かけられてゆきました。

その後も骨髄の中に転移した癌が見つかり、放射線治療が行われました。10月に小津安二郎の生誕百周年を記念して各国の映画祭が特集登場を組む中、バンクーバー映画祭が小津組の役者、青木さんをクローズ・アップする番組を組んでくれました。上映作品は編集の終わっていた『突貫ジジイ』シリーズ6話分と『忘れられぬ刑事たち』の長尺版。それに青木さんの芸能生活70周年を祝うパーティ用に私が編集した青木富夫名場面集(『突貫小僧』からナント映画祭で主演男優賞を受賞される瞬間まで)でした。当然青木さんも招待されましたが、さすがに海の向こうに出かける許可が医師からはおりませんでした。私は青木さんの書かれた手紙を代読しました(以下が全文です)

バンクーバーは遠い
 ハンバークは近くにあるけど
 バンクーバーは遠く、遠くだ
 遠くてもいきたかった
 知らない町で知らない人たちと
 映画を観て
 おつかれさまと乾杯をしたかった
 言葉が通じなくとも、
 七十有余年の私の俳優生活の
 顔で伝えようと思っていました
 バンクーバーに行きたい
 篠崎監督とバンクーバーの町の音を
 聞きたかった
 ザンネン、クヤシイ!
 こんな思いの毎日ですけど
 命ある限りいつかは行ける
 そう信じ祈ってもおります
 バンクーバーのみなさん
 私の祈りを助けて下さい

   青木富夫 2003・9・26」

帰国してすぐに青木さんのお見舞いにうかがいました。映画祭のカタログに載った文章をその場で訳すと「へえ〜」と言いながら、嬉しそうに写真に見入っていました。その後、放射線治療も無事終了し、再び駒沢病院に移ってこられた直後の11月は、本当にお元気で、杖をつきながら病院内を歩かれるほどでした。「元気になったらさ、また煙草吸いたくなってきちゃってさ」といたずらッ子ように笑っていた青木さん。
クリスマス前後に体調を崩された時にお見舞いに行くと「せっかくのクリスマスにこんな爺さんとこにいないで、早く家に帰んなさい」と言っていた青木さん、帰り際にそんなことこれまでお見舞いに行って一度も言われたことがないのに「忘れ物はないね?」と聞かれた青木さんの言葉が気にかかり、翌日病院に行くと「家族の方たちが来るまで待っていてください」と言われました。1時間ほどして現れたご長男と医師から説明を受けました。今日の昼間に発作がおき、CTを撮らないとはっきりと言えないが、恐らく癌が脳内にも転移している可能性があります。

何度も青木さんのお見舞いに訪れてくれた親しい数人の人たちだけに連絡をとりました。

2日後、29日の夕方、祈るような気持ちで訪れた病室で青木さんの意識が再び戻っていました。一緒にお見舞いに来た『おかえり』のプロデューサーでもある松田広子さんに、「大丈夫。まだ死なないから」と心配しなくていいとばかりに言ったのです。誰もが奇跡を信じていました。

翌日も青木さんは上機嫌で一日中お見舞いにいらした方やご家族の方々とお話されていたそうです。とくにお孫さんのことがとても可愛いらしく、「カッチャン、どっちが勝つと思う。曙とボブ・サップ?」などと聞いては楽しそうにされていたそうです。そしてその翌日からほとんど眠られている状態で、時々声をおかけすると眼をあけてこちらを見ては、再び眠るような感じでした。正月明けに最後にお見舞いにうかがった時もそうでした。1時間ほど、寝顔を見ていました。

その後、すぐに新作短編の撮影に入り、ロッテルダムから戻り次第にお見舞いにうかがうつもりでした。まさかこんんなに早くお別れが来るとは思ってもみませんでした。

ちゃんとお見送りすることが出来なくて、胸がふさがれる思いでしたが、一昨日ご次男夫婦の家でお焼香させていただき、お二人のお話を聞くうちに、ほんの少しだけ悲しみが薄らぎました。本当に青木さんがご家族の方たちに愛されていたことが実感されました。

僕にとっての青木さんは伝説の俳優ではなく、細やかな気遣いをいつも忘れない、最年長の友人でした。この十年で一番酒を酌み交わした一人は間違いなく青木さんです。新橋で、渋谷で、新宿で、ナントで、鎌倉で、三ノ輪で。口実を作ってはよく飲みましたね。
演技がどうこうとか関係なく、カメラの前に立つ青木さんを観ているだけで幸せでし、僕が映画を撮り続ける限りにたとえどんな役でもいいからほしいと思っていました(実際、僕の映画3本全てに関ってくれたのは、全スタッフ、キャストを通じて青木さんただ一人です)。

あなたのことが本当に大好きでした。いや、大好きです。
淋しいです。どうか安らかにお休みください。合掌。

                  篠崎 誠拝

小津監督の『突貫小僧』シリーズは知らないけれど『おかえり』で青木さんを知り『忘れられぬ人々』で胸がじん、ときた。直接お逢いしたことはないけど、相方は『忘れられぬ〜』の広島公開/舞台挨拶時に生の青木さんを見て号泣した。著書『生まれてはきたけれど』を購入し、表紙裏に”ウマクヤレヨ”とサインしていただいた。
『忘れられぬ人々』の「お前たちに逢えて、本当によかったよ”と言い微笑む屈託ない表情が好きだ。