『天空の草原のナンサ』

解説】(allcinema ONLINEより)
モンゴルのウランバートル出身で現在ミュンヘンに拠点を置くビャンバスレン・ダヴァー監督が、「らくだの涙」に続き再びモンゴル遊牧民一家の暮らしを綴ったドキュメントタッチのドラマ。
モンゴルの草原で羊の放牧をして生計を立てる一家。たくましい父親と優しい母親、6歳になる少女ナンサとそのかわいい妹と弟は、家族5人で仲良く平和な日々を送っていた。ある日、ナンサはお使いの途中でかわいい子犬と出会う。ナンサはその犬を“ツォーホル”と名付け連れ帰るが、父親はオオカミの仲間かも知れないといって飼うことを許してくれなかった。それでも、父親が羊の皮を売りに町に出かけたのをいいことに、こっそりツォーホルを飼い始めるナンサだったが…。

■ピャンスレン・ダバー監督は、自らの祖国モンゴルにて知り合ったパットチュルーン一家の暮らしを、セミ・ドキュメンタリー的な手法で丁寧に切り取りつつも巧みにフィクションの要素を折り込ませて、着色料や甘味料ではない素材そのものの味わいを引き出している*1。監督は撮影開始にあたり、舞台となったあの草原で生活を共にしながら一家との信頼関係を確立していったという。その甲斐あって、演技ではない3人の子供たちの無邪気な無軌道ぶりは、心がなごむと同時に行動の予測がつかない、という点で程よいサスペンス演出にもなっている。

■映画の前半部分は、食べる/遊ぶ/寝るという、観客が期待するいわゆる”子供らしい”描写が中心であり、観ている側の感想も「かわいい子じゃねぇ」という愛玩の域を出ない。しかし、生活の移り変わりの中で、父の代わりに馬に乗って遠出をするナンサや、ゲル解体の手伝いをする妹、言葉は”ぶーぶーまーまー”でもちゃんと羊の追いたてをする弟、それらの姿には感服した。社会の中で何らかの役割を担い人間は生きていくものであり、その役割(=責任)の存在が人を成長させる。家族という最小単位の社会の中で、年齢に関係なく、そしてそれらの責任を当然のものとして振舞う3人のチビちゃんたちの力強さを見習いたいと思った。

■この手の作品にありがちな、安易な自然賞賛/文明批判となることを避けているのも、この映画の慎み深い味わいである。晴耕雨読な生活でも暗い夜には明かりが欲しいし、学校に行くには町に住むほうが便利がよいに決まっている。ただ、文明社会以上に、自然の中でのびのびと暮らすことが人間の生命力を引き出すことには間違いないことを、本人たちが何よりも知っているのだろう。
あえて二項対立させるとすれば、「自然」と「現代文明」の関係よりも、「家族」と「国家」との関係のあり方についてこの映画は問題定義している気がする。町から戻ってきた夫に対して「選挙で国はどうなるの?」と問う妻、「よく判らない」と答える夫。その横でナンサはひたすら、ツォーホルのことを心配している。または、パーティからはぐれた幼子を必死の思いで探し出した家族の横を「あなたの一票が国を変えます」と無機質にアナウンスしながら通り過ぎて行く国の広報車。国が定義する”大事なこと”と、家族が対峙する”大事なこと”は必ずしも同じではない。国がこの先近代化政策を推し進めていく先に得られるものが、果たしてこの家族が求めるような幸せなのかどうかは判らない。
■こんなことが気になるのも、先日の米軍岩国基地への空母艦載機の移駐問題における住民投票の結果に関して、「国のやることに地方が意を唱えるのはおかしい」と閣僚級の人間がコメントしていたからだ。ムラやマチといった小社会が束になったものが国であり、小さなパーツの意思が全体の相違となるものだと私は思っていたが、この国ではどうも違うらしい。
でも、モンゴルの空の下では、ぜひそうでありますように。”全体利益”の名のもとに小さな幸せが踏み躙られることがありませんように。

天空の草原のナンサ デラックス版 [DVD]

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*1:ナンサが犬のツォーホルを岩穴の中に発見するシーンで、1カットだけカメラが穴の中からのツォーホル目線になるのは気にならないではないけど。