トリコロール3部作

トリコロール/青の愛』

【解説】(allcinema ONLINEより)
楽家の夫を事故で失ったジュリーは、全ての財産を処分しようとした。過去から離れて暮らそうとしたのだった。だがそのとき、彼女は、夫の子を身ごもっている愛人と出会う……。

トリコロール/白の愛』

【解説】(allcinema ONLINEより)
性的不能から妻に去られた男が、やがて金持ちになって、妻に奇妙な復讐をするまでを描く。

トリコロール/赤の愛』

【解説】(allcinema ONLINEより)
女学生のヴァランティーヌが知り合った初老の元判事には、他人の電話を盗聴するという悪習があった。彼女はそれをやめさせようと、男の過去を探っていくが……。

■第3部『赤の愛』 の中で、人が人を、そして神が人を裁くことの意味を問う場面がある。それは第3部のテーマであると同時に、既に第1部『青の愛』、第2部『白の愛』をを通じて、映画を観る我々自身のスタンスに対する問いかけでもあった気がする。
「夫と子供を無くし、また夫の愛人の存在を知ってしまった女は、どのような生を選ぶべきなのか?」
「無垢な思いからとはいえ、愛する人に殺人犯の汚名を着せることとなってしまった男に生きる価値があるのか?」
■本作だけではなくあらゆる映画の見方に通じるのだが、登場人物の行動を見つめる我々は、ラストシーンに向けて彼らの行く末を様々に思い巡せる。しかし、そうやって思索する行為とは、知らず知らずのうちに彼らを「裁く」という立場に立ったものに他ならない。「結末は希望どおりでほっとしました」「あんなラストは納得できない」などと、登場人物の生殺与奪までも握らんかのような思いがそこには少なからずある。しかし、ある日気付く。仮にそこで「裁き」が行われたとしても(我々の予測と映画の結末が同じであったとしても)、それで全てが解決するわけではないことを。−映画は終わってたとしても、登場した彼らの人生は終わるわけではなく続いていく。映画を見る自分にできることは、ただ彼らの行く末をじっと見つめることだけなのだ。たとえエンドタイトルが流れても、見えなくなったスクリーンの向こうで彼らの人生が続いていくことを感じながら。
■白黒をはっきりつけてしまうハリウッド勧善懲悪劇が嫌いなわけではない。ただ、自分の中で租借して消化する必要がある作品の方が、”映画を観た”という気持ちになれるのが事実なのだ。山中貞雄の『人情紙風船』、ダルデンヌ兄弟の『イゴールの約束』、スタンリー・トゥィッチの『リストランテの夜』等々…。作中でしっかりじっくり練りあげられたものをラストシーンでそっとこちらに”どうぞ”と手渡されて、手渡された「それ」を落としたりこぼしたりしないように映画館から家まで大事に抱えて帰る。帰ったあと、そっと「それ」を開いて、しげしげと眺めたり匂いを嗅いだりしながら、ゆっくりと口に入れてはみはみしていく。そんな体験がしたくて映画館に足を運ぶ。
■中には、”観客に続きを委ねる”ことと”梯子をはずす”ことと勘違いしている作り手もいる。また、パラレルな結末を準備した映画にも、”登場人物にいくつもの選択枝を与えてあげたかった”という愛情を感じられるものもあれば、マルチエンディング方式という言葉で”判断力の無さ/マーケテイングの放棄”を誤魔化しただけのものもある。T・ティクヴァの『ラン・ローラ・ラン』はあまり印象に残る映画ではないけれど、今想えば、キェシロフスキの『偶然』をやりたかったのかもしれない。