ネット(だけ)で世界が解るはずがない

CDといっしょにレンタルして一気読みした。

大槻ケンヂ20年間わりと全作品(CD付)

大槻ケンヂ20年間わりと全作品(CD付)

読む前は特撮時代の裏話くらいしか興味なかったけど、オーケンという人間の全体像が見え(た気がし)て面白かった。それぞれの時代の小説も読みたくなったよ。
大正九年に提供した『ネットで叩いてやる!』の歌詞に関して、ネット上でのネガティブな書き込みと【呪い】とを関連づけていたのが興味深かった。
うろおぼえだけどポイントは、

  • 前近代的な【呪い】にポイントは、”お前のことを呪ったぞ”ということがその対象に伝わることで効力を発揮していた
  • ネットにおいての攻撃的/悪意的なコメントやレスは、その相手に読まれることによって相手に精神的な苦痛を与える、それはまさに現代の【呪い】である
  • そのネット上の【呪い】も、書き込みした本人が悪意を向けた対象者に読まれることがなければ、本人の孤独感が浮き彫りになるだけのものであってそれはまさに【呪い返し】の状態である

だいたいこんな内容だったかと。筋少凍結のゴタゴタの中で実際に三原順子ばりのネット叩きにあったオーケン自身の経験からのコメントなのでしょうけど。
でもそれは本当にそうだ。【呪い】もそのパーツ違いの【祝い】も人間関係の中で産まれるものだけど、ネットの上で人間関係が育っていくとか社会が形成されていくという幻想は相変わらず世間的に根強い気がする。

例えばポータルサイトmixiのニュースに誰もが好きにコメントできる最近の仕組みにおいて、有識者や正義感ぶって偏ったコメントを述べる人間の多さ。自分の声が世界に届く仕組みがある、というだけでよくぞそこまで大きな顔で横暴なことが書けるもんだ、と思うものばかりだ。
書かせているシステム側もそれが【世論】だなんて勘違いはしてないよね?。社会を動かしているのは昼間からニュースに書き込みする暇なく働いている大多数の普通の人だということを勿論認識しているよね?

あとmixiで”有名人とマイミクになろう!”っていうのが絶えず行われてるけど、参加している人はどこまで【解った】上で参加しているのかなぁ…? 「(有名人の)マイミク=友達!」というあまりに短絡的な人は全体の中のごく僅かだと思いたいけど、あまりに軽薄なマイミク紹介文を見たりすると暗い気持ちになってしまう。…アンタは相手のことはテレビで知ってても、相手はアンタのことは知らないから!っていうか興味ないし、マーケティングのためにマイミク間でしか公開し得ない個人情報を収集してるだけだから!

もちろんネット上でのやりとり(他愛もないレスのつけあいとかメール文通とかを含めて)が無駄とは思わない。私自身もネット文通から相方と結婚して大事な子どもも産まれたからね。重要なのは、ネット上で相手(特定の誰かではないことも含めて)に届いた時点、そこから何をするか?だから。

●●「SEXしたい!」
○○「こんなところで叫んでも誰にも届きませんよ。」

自分がブログを少し頑張ってみよう、と思うきっかけとなった○○さんのブログにあったコメント欄でのやりとり。スパムコメントに対しての○○さんの鮮やかな切り返しにヒザを打ちつつも、ものすごくネットの本質を突いていると思った。悶々とするのなら家を出て合いに行けばいいよ。SEXしたいかどうかは置いといて(笑)、対象と対峙することでモヤモヤした思いは昇華されて次のステージに進めるよ。

本のあとがきでオーケンはこう書いている。

ライブにはオーディエンスがいる。小説には読者がいる。そういう関係のもとに自分が社会にいるってことを認識していないと、自分があやふやになってしまう、本当にこの世に生きているのかわからなくなってしまうという、なんかそんなのがあるんだ。人とのコミュニケーションがうまくいかないということは、逆に言うと完全なコミュニケーションを欲しているんだと思う。

普遍的だからこそ真理だよね。自暴自棄的な照れくささから「ボヨヨーン!」と奇声を叫ぶことしかできなかったオーケンが「大好きだよ君が/恥ずかしくもないよ」と正面から唄えるようになったその軌跡こそ、人や社会との関係をリアルなものに築いていった力強い実例だから。