『時をかける少女』(福山シネマモード)

【解説】(allcinema ONLINEより)
これまでに何度も映像化されてきた筒井康隆の名作ジュブナイルを初のアニメ映画化。あるきっかけで、過去に遡ってやり直せる“タイムリープ”という能力を身につけたヒロインの淡い恋の行方と心の成長を丁寧な筆致で綴る。監督は「ONE PIECE ワンピース THE MOVIE オマツリ男爵と秘密の島」の細田守
 明るく元気な高校2年生、紺野真琴は、優等生の功介とちょっと不良な千昭と3人でいつもつるんで野球ばかりして楽しい毎日を送っていた。そんなある日の放課後、真琴は理科準備室で、突然現れた人影に驚いて転倒してしまう。その後、修復士をしている叔母・芳山和子のもとへ自転車で向かった真琴は、ブレーキの故障で踏切事故に遭ってしまう。死んだと思った瞬間、真琴はその数秒手前で意識を取り戻す。その話を和子にすると、和子は意味ありげに、それは“タイムリープ”といって年頃の女の子にはよくあることだと、冗談とも本気ともつかない説明をするのだった。最初は半信半疑だったが、いつしか使い方を覚えて些細な問題でも簡単にタイムリープで解決してしまい、すっかり調子に乗る真琴。そんなある日、真琴は千昭から突然の告白を受ける。3人の友だち関係がいつまでも続くと思い込んでいた彼女は、動揺のあまり、タイムリープで告白そのものをなかったことにしてしまうのだが…。

■『時かけ』がアニメ映画に─。知ったのは、書店で立ち読みしたQuickJapan「SF特集」号の、細田守監督のインタビューより。アニメ界の動きには疎いので細田監督のことは全く知識なく、”また難儀なことするなぁ”というのが、映画化を知ったときの感想。映画マニアとしても知られる筒井康隆(※1)の眼鏡にかなう作品となるのか、しかもアニメで─?と気になりインタビュー記事を読んだが、その筒井氏が好評価を行っていて、それ以来少し気になってはいた。
■広島での公開は首都圏公開から1週間遅れで広島バルト11にて。しかしアニメ映画にありがちな、朝の回のみとかの半端な時間の上映になってしまい時間を工面してまで見に行くかどうかの決心はつけかねていた。そしてネットの上で圧倒的な高評価(※2)が伝わってくるころには広島での公開は終わり、最寄りの映画館は福山市のみ。もうチャンスはないかもしれんと意を決し、知らない街の映画館へ。

■…めっさ良かった。真っ直ぐで斬新で初々しくて潔くて大胆で繊細で清々しくて凛々しくて。声を務める若手俳優ちの真っ直ぐな演技、前半のコミカルな演出が中盤のサスペンスを引き立てる巧みな脚本展開、そして”勇気を持って未来に踏み出すことで人は成長する”というメッセージ。冷静に考えるとつじつまの合わない消化不良箇所も少々あるけど、中盤移行の気持ちを揺さぶる展開の前には些細なことはどうでもよくなる。観たあともずっと、ひとつひとつのシーンが頭の中をぐるぐるして、それらにケリをつけずにはいられない。




※1:小学校高学年から中学校くらいまでいっとき筒井康隆にハマっていた。『にぎやかな未来』『アフリカの爆弾』などの角川文庫の白い背表紙シリーズを買ったり、『家族八景』『七瀬ふたたび』は中学校の頃通っていたピアノの先生の部屋の本棚にあったものを読んでいた。そのころは”ツツイスト”なんていう言葉はなかったと思う。
※2:例えばYahoo!映画のユーザーレビューにおけるあまりの高評価ぶり。そもそもあのレビュー欄に書き込むようなクラスのレビュアーにシビアな批評眼を期待してはいけないが、それでも”☆5つ”をつける気持ちはよく判る。作品の内容のよさは勿論、今夏アニメの本命馬の『ゲド戦記』がその前評判やジブリのブランド力に見合うだけの説得力が持てなかったため、ノーマークの『時かけ』が相対的に際立ってしまったこともある。




【scene01:タイトルロール、基本人物・設定紹介】
■キャッチボールが夢の中の出来事だった…というのは一瞬理解できなかった。落ちてくるはずのボールが目覚まし時計に変わったのを「今のがタイムリープ?」なんて思ってしまったり。
■美術・背景のディテールが細かい分だけ、キャラクターの作画が時々荒く(通行人等のモブキャラの体系や歩き方が適当だったり、メインキャラでもロングショットになると細部が省略されて記号化されてしまったり)、実写映画を基準とすると気になってしまった。
■7月13日はナイスの日…というより本作の公式封切り日の7月15日に極力タイミングを合わせた日付。2006年暦では木曜日。
■「学校帰りに桃持っていってー」と母親に頼まれる真琴。でも、ただでさえ痛みやすい桃を夏場に持たせるなんて。真琴は授業中はどこに桃を保管していたので?”魔女おばさん”のところに真琴を寄らせるためのきっかけなら別に桃じゃなくてもいいのにね。
■真琴の校内描写においては、遅刻や数学のテストでの撃沈は定番として、調理実習ではボヤの引き金を引き、昼休みには人間風車の下敷きになるという「これでもか」というくらいのそこつっぷりが表現される。もちろん、そのくらいマンガチックに描写しておかないと、後のタイムリープによる危機回避の味が生きてこないわけですが。

【scene02:理科室での不可解な出来事】
"Time wates for no one."←(゜Д゜)ハァ?
■『時かけ』と言えば理科室。不審な人影に驚いた真琴はクルミ形の装置によって”チャージ”される(※1)。チャージを表す効果として、生命誕生を暗示させる水(羊水)から始まり、野獣や原始人、炎といったプリミティブな”過去”とパイプチューブとソリッドな建築物?を組み合わせた無機質な”未来”のイメージが挿入される。

【scene03:放課後のキャッチボール】
■理科室での出来事を二人に話すも、一蹴されてとりあってもらえない真琴。休みの過ごし方と今後の進路についての、功介と千昭/真琴の意識の相違。医者の息子/跡継ぎという既に定められた未来を持つ功介の立ち位置は、”夏休み”というモラトリアムを一足先に卒業してしまっていることがわかる。

【scene04:倉野瀬坂の悪夢、タイムリープ(TL)発動】
■キャッチボールを切り上げて自転車で坂道を降りる真琴。毎朝遅刻しそうになって全力疾走→急ブレーキ、というscene01での描写がブレーキ損傷の伏線に。16時の時報人形と放り出されるスローモーションが強い印象を与えている。この悪夢のような描写が、忘れたころに復活することになるとは。
■”事故からの回避のためのTL自動発動”、これも筒井小説版(小説ではトラック)からの踏襲。ただし今作では自動発動はこれっきりで、後は真琴の意思による発動がメインとなる。

【scene05:魔女おばさんへの相談】
■「魔女おばさーん、私、生きてる!?」と駆け寄る真琴。美術館では静かにしましょう。
■TLという非現実的な事象を(観客に)どう説明し、真琴がどう納得するのかが今後の展開のキーポイントになる。その手段として”魔女おばさん”こと芳山和子に「女の子にはよくあることよ」とあっさりと片付けさせてしまう。これは”芳山和子”というキャラの由来を知っている者にとってはニヤリとさせられる台詞だし、そうでない者にとってはギャグのような力技(※2)。確かに、中途半端な理論で説明されてもテンポが崩れるし、その謎とき自体が作品の楽しみでもある。

【scene06:TL実践篇、魔女おばさんの忠告】
■最初はTL先からTL元時点に引き戻されるも、次第にコツを掴んでいく真琴。しかしその使用目的はナイスの日のリベンジとしてテストで満点をとったり調理実習でボヤの身代わりを立てたり人間風車をネオばりのブリッジで回避したり、また好きなだけ好きなものを食ったりという超ミニマムな欲求達成/ストレス回避のため。その描写は真琴の性格 ─良くも悪くも目標/野心/願望がなく、その時々を平穏に過ごせたらいいというイマドキの高校生気質─ を示している。
■カラオケでの”ゴロゴロゴロ”(※3)には、千昭の「どこから出てきたんだよ!」のツッコミもあり笑った(※4)
■TLで調子にのる真琴に「真琴がいい目を見てる分、悪い目に逢う人がいるんじゃない?」とたしなめる和子。TLによる跳弾効果がこの後の展開に大きく関っていく。




※1:監督 細田守コメント:

タイムリープの使用回数をクルミの装置で身体にチャージする、という方法は、僕と奥寺さんの間で「Suica理論」と呼ばれていました。(「時をかける少女NOTEBOOK」より)

※2:監督 細田守コメント:

この映画はいわゆる「タイムトラベルSFもの」でもあるんですが、「タイムリープが現実にあったらどうなるか?」を引っ張る作品でもないので、なるべく理屈は最小限に、それこそ和子があっさり説明しちゃうのもOKにしました。(「時をかける少女NOTEBOOK」より)

※3:脚本 奥寺佐渡子コメント:

もし実写の俳優さんでやるとスタントが必要になるし、しかも着ているものが夏服だから腕や足にサポーターが付けられない。これが実写だったら、そのシーンの現場は結構ピリピリしますよ。(「時をかける少女NOTEBOOK」より)

※4:TL先で過去/未来の自分自身に遭遇するorしないの原則は明確にしておかなければならない。今作では特に説明はないが、原作内では”同一存在の矛盾”という言葉で遭遇しない原則が説明されている。




【scene07:真琴、千昭に告られる(跳弾効果1)】
■功介が後輩から告白されるがそれを断る功介。事故を避けて徒歩通学の真琴は千昭の自転車の荷台に。「アイツ絶対彼女できたら彼女取るぜ」「二人じゃキャッチボールしかできねぇ」とボヤき「…俺とつきあわね?」テレながらも真琴に告る千昭。しかし前述のとおり平穏主義の真琴はTLで告白を”無かったこと”に。そもそも千昭の告りの発端は功介の告られ話からだったためだが、功介の告られ話にはscene06での真琴のTLが関係していることがscene10で明らかになる。既にTLの跳弾効果が始まっていた。

【scene08:真琴、千昭と気まずくなる、千昭と友梨が接近(跳弾効果2)】
一方的に千昭を意識して彼の目線の外に隠れようとする真琴のスケッチには、”うわー青春だー!”と懐かしくてこちらの胸がいっぱいに。
■しかしそんな真琴の態度にイラつく千昭は結果的に友梨と接近(※1)。

【scene09:高瀬の逆襲(跳弾効果3)】
■scene06で真琴の身代わりに立てられイジメの対象となってしまった高瀬が消火器を使って校内でキレ、真琴にもその矛先が向いてしまう。かばおうとした千昭が犠牲となることを防ぐために真琴もTLで千昭を守るも、結果的に友梨がケガをしてしまう。「傷が残ったらどうしよう…」と心配する友梨(※2)に「だいじょうぶ…アタシがなんとかする」と少しずつ”力の責任”(※3)を意識しはじめる真琴。そして真琴は、自分の左腕に”カウンター”を発見する。

【scene10:誰かのためのタイムリープ
■千昭は友梨とのつきあいを優先し、功介と真琴はキャッチボールするしかない(※4)。「功介は彼女つくらないの?」「俺が彼女作ったら、真琴がひとりになるだろ」 千昭とのこともあり、今度は功介を意識し始める真琴。
■和子が美術館にて修復を手がけていた「白梅ニ椿菊図」は、その由来も作者もわからない。
■後輩3人娘(※5)から「功介先輩とつきあってるんですか!?」と詰め寄られる真琴。(scene07で)果穂が功介に告るものの、(scene06のTLで)真琴がテストで満点を取ってしまったことが功介を奮起させてしまったことを知り、「私がなんとかする!」と功介と果穂をTLでくっつけようと奔走する(※6)。その姿は、60年代筒井オリジナル版のヒロインがタイムリープに翻弄される存在だったことに対し、積極的に力をコントロールしようとするのが21世紀の『時かけ』の姿であることの象徴である(※7)




※1:真琴に対してのあてつけだと思うけど。
※2:友梨のいる保健室に千昭がやってくるシーン。入口で真琴に会うが無視する千昭。その表情はまだ真琴に気が残っている反動ともとれる。
※3:「大いなる力には、大いなる責任が伴う。」byベン・パーカー
※4:この状況はscene07の千昭のボヤキと呼応している。もちろん、千昭はこんなボヤキを自分が行っていたことは知る由もない。
※5:個人的な好みとしては、ショートカットの折美がストライクです。
※6:同じ時刻/シチュエーションを何度も往復するのはタイムリープもののお約束だけど、失敗する度にジャンプがエスカレートするギャグはチャウ・シンチーの『チャイニーズ・オデッセイ』を思い出した。
※7:真琴が功介と果穂をくっつけようとする背景には、功介が自分に対してアプローチしてくることへの保身とも解釈できなくもない。




【scene11:倉野瀬坂の悪夢再び(跳弾効果4)】
■失敗を重ねたあげく、7月13日の朝まで戻り功介と果穂を仲良く人間風車の下敷きにするという手段を選ばない強引さでくっつけた真琴は、いい機会だと”あの時”の理科室に潜み人影を待ち伏せるが空振り。そこに果穂を病院に送るために「自転車借ります」という功介のメールが。真琴も観客もscene10で浮かれていたころにscene04の伏線が復活する演出が上手い。実は理科室にいたのは千昭だった、ということを知らないまま飛び出す真琴。倉野瀬坂踏切に駆けつける真琴だが事故は起こっていない。
■ほっとした真琴に千昭からの電話が。7月13日にまで戻ったため千昭との関係も以前のままであり、屈託なくしゃべる二人。「聞きたいことがあるんだけど」という千昭に「何でも聞いてみなさい」とお気楽な真琴。また告られるかも、という懸念はないのか?しかしそこで出てきた千昭の言葉は「お前、タイムリープしてね?(※1)
■一瞬固まる真琴。しかしまたもTLでその会話を”なかったこと”に。カウンターがゼロとなってしまったその直後、真琴の横を功介と果穂の自転車の乗った自転車がすり抜ける(※2)
■坂を下る自転車を必死に追いかけるが加速した自転車に追いつくはずもなく、転倒し傷だらけになる真琴。ボロボロになりながらも真琴は二人を止めようとするしかない(※3)。自分のためではなく友達のためにTLを使ったはずなのにそれがまた裏目に出てしまった。4時のチャイムを無慈悲に鳴らすからくり人形、スローモーションで列車前に投げ出される二人、決死の形相で泣き叫ぶ真琴。「止まれぇぇぇぇ〜ッ!!」
■千昭登場。「俺、未来から来たって言ったら…笑う?

【scene12:千昭の告白、別れ】
■60年の原作と同様に、止まった時の中で真琴に真相を話す千昭(※4)。45年前に発表された原作でケン・ソゴルの口から描かれる未来像と、今作で千昭が断片的に語る未来像のギャップには重いものを感じてしまう。自然破壊や少子化、戦争や内乱による芸術や娯楽の消失といった、現在既に起こっている問題が食い止められなかった未来。千昭の話を印象づけるように、現在の日常生活や風景の様々なカットが挿入される。
■自分の時代では既に失われた「白梅ニ椿菊図」を見るためにこの時代にやってきたこと。しかしTLのことを知られた以上、見ることができないうちに(※5)皆の前から消えなければいけないこと。功介を助けるためにTLの残り度数を使い果たしたために、元の世界にも帰れないこと。未来の人間とはいえ千昭自身も真琴と同様に若く不器用で純粋な存在であることが、その言動から伝わってくる。
■泣きながら引き止めようとする真琴を雑踏の中に残し、千昭は消えていく。




※1:いつの時点で千昭がそう思ったのか。このシーンの直前で7月13日の朝の振り出し時点に戻っているので千昭の前ではTLは行われていない。考えられるのは、真琴(と観客)の知らないところでの千昭のTLによる”クルミ捜索”の中で真琴が絞りこまれた、ということぐらい。
※2:捻挫の手当てがされた果穂の足を一瞬映すショットで、功介が親の病院に寄り道したこと─踏切事故の運命が”起こらなかった”のではなく”先延ばしにされた”だけだったことを瞬時に観客に判らせる演出が憎い。
※3:このシーンは『くれシン オトナ帝国』。あの映画と今作とは描くテーマもかなり共通している。
※4:”時間を止めてのやりとり”は、現在の観客にとっては『マトリックス』の印象が強いかも。
※5:scene10では「白梅ニ椿菊図」が和子の手により復元されているが、その日付は少なくとも7月14日以降である。




【scene13:真琴と和子】
■突然消えた千昭のことで、学校内では無責任なウワサが広がっている。功介の言葉に、あらためて自分のやってしまったことに悔いる真琴。「…最低だ、アタシ」屋上へ駆け上がっていく真琴。しかしもう時を戻すことはできない。できるのはただ、失ってしまったものの大きさに涙を流すことだけ。この場面も筒井小説版のラストシーンとの対象を成している。小説ではケン・ソゴルは和子を含む全ての人間の記憶を消し、存在時代を”なかったこと”にしてしまう。今作では記憶を消さない(未来人でもその能力は無いのかもしれない)ことで、後では取り戻せない”今”という瞬間のかけがえの無さが伝わってくる。

■青春の苦い一面を印象づけてここで物語を終わらせることもできたかもしれない。しかしこの後に”大逆転”と言いたくなる展開が待っている。

■全てを和子に語る真琴。それまでも度々、預言者のように含み(と毒)のあるアドバイスを真琴に行ってきた和子が、自分自身の経験を踏まえてストレートに言う。「待ち合わせに遅れてきた人がいたら、走って迎えに行くのがあなたでしょ?」小説原作での芳山和子のTLは受身的で保身的だ。工事現場から鉄骨が落ちてきたり真冬の戸外に放り出されて凍えそうになったりといった自分のピンチに対してTLが発動する。また、記憶を消された和子は”なぜかは判らないまま”どこかで逢ったはずの誰かを待ち続ける(※1)。そんな和子が、自分にできなかったことを真琴に託す。バトンは渡された。真琴はこの後も駆け続けなければならない。

【scene14:最後のタイムリープ
■それでも真琴は内にこもったままだ。「失恋よ、失恋」とあたりさわりのない反応の家族(※2)。外から迷い込んできて真琴のTシャツの袖にもぐりんだテントウムシが気になる真琴。腕には0だったはずのカウンターが1つだけ戻っている(まさに”虫の知らせ”)。「!」
■外に飛び出し、夜の坂道を全速で駆け下りる真琴。「あのとき、千昭が時間を戻したから…なら、千昭だって同じはず!千昭だって!」「いっけぇーーーーーー!!」大切な人に逢うための、全身全霊の、そして最後のタイムリープ。千昭とのこれまでのいくつもの思い出がよぎり、先にある光を目指してまっすぐに向っていく(※3)


【scene15:決着】
■真琴の最後のTLの着地点は、全てが始まったあの日の理科室。床に落ちていたクルミを拾い上げ、ちらばったノートを片付け、様々なことにケリを付ける。「友梨、わたし、千昭のこと好きだ。」「功介、あたしの自転車使ったら5千円!」「あの子たち(三人娘)も野球に誘いなよ」これらの判断が最善なものなのかは判らない。たとえ功介が自転車に乗ることはなくても別の理由で事故は起こるかもしれない。しかし今の真琴には迷いはない。生きていくことに後戻りはないと身をもって悟った強さがそこにある。そして真琴は走り出す。大切な人に逢うために。逢ってさよならを告げるために。

■学校からグラウンドまでを駆けていく距離と同じ時間、真横からのアングルで真琴の汗、激しい息づかい、表情が写し出される(※4)

■グラウンドにいる千昭。この時点では千昭にとっては告白も友梨のことも事故もまだ起こっていないので真琴に対してはいつものようにぞんざいな態度。黙ってクルミを手渡す真琴。
「お前、どっから来た?」「未来から」─scene11の千昭の台詞を本人に返す真琴。

【scene16:河原にて】
■(真琴にとっては思い出の)河原に並んで座る二人。千昭がいる未来のための自分の意思を伝える真琴。しかし、互いが全てを知ってしまった以上、この先には別れしかないことに気付いている二人はどこかぎこちない(※5)

【scene17:最後のことば】
■せめて別れる前に、あの時のように千昭の口から言ってほしい。真琴はもどかしくそれを期待している。しかし千昭からもらった言葉は、いつもの千昭らしい憎まれ口のような言葉。売り言葉に買い言葉で、強がって千昭をつき放す真琴。「じゃぁなー!」反対の方角へ歩き出す真琴。後から追いかけてきてくれないかな、……でも、振り返っても、既に千昭はいない。またやってしまった。大事な事を言えないまま別れてしまった。「わーーん!」号泣する真琴。その時。

■世界の全ての音が止まり、足早に戻ってきた千昭が真琴を抱きよせる。

「未来で待ってる。」

突然の言葉に、直感的に真琴も返す。

「─うん、すぐ行く。走っていく。」

泣き笑いの真琴。そんな真琴の頭をクシャクシャとなでる千昭。

千昭のいた空間を見つめる真琴のシルエットが薄暮の中に消えていく。

哀しくて切ないはずなのに爽やかで前向き。ものすごくとってもひじょうにすばらしい。

【scene17:エピローグ、エンドクレジット】
■3人娘がジャージで真琴、功介とグラウンドで野球にいそしんでいる。彼女たちを野球に引き入れた真琴の意図は、安易に果穂と功介をくっつける前に果穂が自分から動く機会を与えようということか、それとも未来世界で野球が無くならないようファンづくりをしておこうということか。
■「やりたいことが見付かった」という真琴。しかしそれが何なのかは語られず、恐らく真琴の中でも漠然としているのだろう。しかし真琴の表情は真っ直ぐに未来へと向っている。待ってられない未来がある。エンドクレジットは真琴の表情集と奥華子の『ガーネット』(※6)




※1:記録を無くした和子が今作でTLのことをどこまで理解しているのか、またケン・ソゴルのことをどこまで覚えているのか、今作内でもあいまいな描かれ方しかされない。そもそもこの”芳山和子”が原作の芳山和子と同一の人物であるという描写もされていないので、その意味では今作は原作の”続編”ではなく”オマージュ”という位置づけのほうがふさわしいと思う。

※2:今作において真琴の家族はエッセンス程度にしか描かれていない。また”学校もの”というジャンルでキーマンとなるべき”教師”の存在も希薄であり、主人公に影響を与える要素として”家族”や”教師”が機能していないことは意図的だろうか。

※3:以下、JAS○AC不許可。曰くこれは千昭目線の歌だということだが…。

帰り道ふざけて歩いた 訳も無く君を怒らせた 色んな君の顔を見たかったんだ
大きな瞳が 泣きそうな声が 今も僕の胸を締め付ける
すれ違う人の中で 君を追いかけた 変わらないもの探していたあの日の君を忘れはしない
時を越えてく思いがある 僕は今すぐ君に会いたい

※4:ただしここは真横だけではなく全身の絵が欲しかった。固定アングルでの長回しなので、真琴の後ろを風景が流れていくだけでは動いているのが真琴ではなく背景のように見えてしまう。工数予算の限界はわかるけど、そうすればもっといいシーンになったと思う。

※5:千昭に対して自分からTLの話をしなければこれまで通りの関係を続けることもできたはず。しかし千昭もいつか自分の世界に帰らなければいけない以上、千昭を安心させるためにも自ら話すことを真琴は決断したのだと思う。あるいは、単に頭がそこまで回っていなかったのかもしれないが…。

※6:くたばれJAS○AC。

グラウンド駆けてくあなたの背中は 空に浮かんだ雲よりも自由で
ノートに並んだ四角い文字さえ すべてを照らす光に見えた
好きという気持ちが分からなくて 二度とは戻らないこの時間が その意味をあたしに教えてくれた
あなたと過ごした日々を この胸に焼き付けよう 思い出さなくても大丈夫なように
いつか他の誰かを好きになったとしても あなたはずっと特別で 大切で
またこの季節が めぐってく





筒井康隆氏によって「時をかける少女」が書かれてから40年。当時、少女たちは、「時をかける少女」を読み、未来を夢見た。そして今、かつて未来と夢見られた21世紀に僕らはいる。けれど、決してあの頃、少女たちが憧れた未来ではないはずだ。では、夢見たはずの未来の姿は、どこへ行ってしまったのか?現代の少女たちも、かつてと同じく、未来を夢見るのか?ならば、その未来とは、どのようなものか?この映画には、ふたりの女性が登場する。ひとりは、かつて、「時」をかけた女性。もうひとりは、今、「時」をかける少女。このふたりのヒロインを通じ、時代によって変わっていくものと、時代を経ても変わらないものについて考えてみたいと思う。「時をかける少女」には、その時々の言葉で、時々の方法で、時々の少女たちで、何度も語られるべき、世界の秘密が隠されているのだと思う。(監督 細田守

時をかける少女 NOTEBOOK

時をかける少女 NOTEBOOK